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下野市/下野国の成立

rental;wikipedia : File:Shimotsuke Kokucho Ruins maedono.JPG

 

【下野国の成立】

 

律令制度の古代五畿七道、畿内より遠国として位置つけられる東山道に属する下野国は、律令国家の確立過程において、渡来人の移配地として多文化交流が盛んになり、先進的な技術や文化がもたらされたと「日本書紀」にあります。

 

下野国は、東国全体の中で、特に東北の勢力に対抗する最前線としての役割を担い政策的に重要視されたことから、人々の負担や不安の拠りどころとして下野薬師寺が建立されたとの見方があります。また下野薬師寺周辺は、古墳時代から下野国の中心として栄え、多くの重要な遺跡が残されています。

 

下野国は、もともとは毛野(けぬ)という一つの国が分割され、畿内、都に近い方が「上毛野(かみつけぬ)のちの上野国(こうづけのくに)」、遠い方が「下毛野(しもつけぬ)のちの下野国(しもつけのくに)」の二国になったといわれています。

 

国府は都賀郡に置かれ、梁田、足利、安蘇、寒川、芳賀、都賀、河内、塩谷、那須の九郡から構成されています。 俗に野州とも呼ばれる下野の国は、北部から北西部に奥羽山脈、日光連山、足尾山地が連なり、その急峻な山岳から鬼怒川、那珂川、渡良瀬川が流れています。美しい渓谷の景色、広がる田園、河川は関東平野につながり晴れの日には富士山も見えます。一方、畿内からみた東山道下野国は山岳に囲まれ、通行の険しい遠い未開の地という意識があったようです。

 

鎮護仏教の時代から平安時代を経て、やがて下野国は豪の者の台頭により、厳しい武家の時代において、関東武士の名だたる兵(つわもの)を排出することとなります。

 

次回につづきます。

 

参考 旧南河内町教育委員会「ビジュアル下野薬師寺」・旧国分寺町「図説国分寺町の歴史」